TABLEWARE
中田雄一の白釉と色絵
白釉と色絵を基軸とした作品制作を行う、金沢在住の作家・中田雄一さんの器の取り扱いが始まりました。中田さんは焼き物の産地ではない北海道出身ということもあり、土地の固有性に左右されない、デルフト陶器を作品のエッセンスとして取り入れています。磁器のように硬く焼き締まり、つややかな光沢をたたえながら、とろりと掛けられた白釉に温かみを感じます。古典的のようでいて独創的な絵付は、洒脱な遊び心も散りばめられています。
オランダで16世紀後半から17世紀にかけて生産されたデルフト陶器は、当時の西洋で憧れの的だった中国の磁器を再現したいという思いから生まれました。材料、技術ともに磁器の生産に辿り着けなかった当時の陶工たちは、試行錯誤を重ね、中国磁器の影響も受けながら独自の表現を生み出していきます。白く焼きあがる錫釉を掛け、藍や黄色などで風車やチューリップ、人物などを描いたデルフト陶器は、磁器とはまた異なった愛らしい魅力があります。それらのいくつかは江戸時代初期の日本にも持ち込まれ、茶人たちの見立てによって珍重されました。
土そのものが好きだという中田さんは、使用する土のことを熟知した上で、当時のデルフト陶器に残された情報を読み解きながら、作品にアプローチしています。色絵の器の制作過程は、一度焼成した器に彩色を施したのちに800℃の低火度で焼き付ける、上絵付の技法が主流ですが、中田さんの色絵は、釉薬を掛けた器の上に沈みこませるように絵付を施し、一度の高火度で仕上げられています。
制作工程の定説を鵜呑みにするのではなく、当時の器を参考に仮説を立て、可能性をすくい上げていく。それは時間と労力を要する地道な作業でもありますが、焼き物だけでなく、自分の興味関心の延長線上で幅広い分野を探求する、学者肌の一面を持つ中田さんの真骨頂のようにも思えます。
新たに制作した作品も、自己表現の範疇に留めるのではなく、物として手離れすることを目指しているため、まずは一年ぐらい手元に置いて使用し、物として無理がないかを見極めるそうです。また、日常の器でありながら懐石の場でも遜色のない、ハレとケを行き来できるような器を目指す作家の姿勢に、自身の作品に対しての中立的な態度と、使い手の眼に委ねる自由さを楽しんでいるように感じます。
過去のデルフト陶器から多くのギフトを受け取っているように、「自身の作品がこの先の未来でどのように読み解かれるのか楽しみ」と語る中田さん。同時代を生きる中田さんのみずみずしい感性と、タイムレスな存在感の両方を併せ持つ器は、目にする喜び、使う愉しみも備わっています。
長戸裕夢さんの北川毛窯
昨年秋にトークイベントで松山に呼んでもらった翌日、連れて行ってもらった今治の古道具店で店の奥にあった徳利を眺めていたら、「砥部焼の古い物かもしれないんだけど」と出してもらった物が、灰色がかったモスグリーンの一升徳利でした。砥部焼といえば、唐草模様の染付の、おおらかな厚手の磁器というイメージがパッと思い浮かぶ程度のことしか知らなかったので、「こんな渋い雰囲気の物も作られていたんだ」と印象に残りました。
それからしばらくした後、大型書店で陶芸専門誌を立ち読みしていたら、愛媛の作家さんが紹介されていて、気になって検索してみると、どこかで聞いたことがあるワードが挙がってきました。「北川毛窯」。それは、古道具店で教えてもらった江戸時代後期に稼働していた砥部の古窯。その人は砥部の窯の四代目で、かつての陶工に思いを馳せながら、砥部焼の最初期である北川毛窯の焼き物を再現し、自身の作品に活かそうとしていました。
偶然の出会いから始まった個人的胸熱エピソードも添えましたが、先日からお取り扱いが始まった、長戸裕夢さんの器をご紹介します。砥部焼のルーツは、唐津辺りから招いた日本人陶工に技術を学んだのが始まりという説が主流のようですが、朝鮮から渡来した陶工が始めた説もあったりとミステリアス。北川毛窯についての文献も少ないようです。長戸さんは窯跡に残された陶片や資料を元に器作りに取り組んでいます。
砥部焼のイメージを180度ひっくり返すような、堅く焼き締まった薄手の陶磁器。刷毛目や象嵌、白磁の器は、「中四国でも李朝を思わせる焼き物があったんだ」と、勝手に同じ地域枠でシンパシーを感じて嬉しくなってしまいます。
長戸さんは原料となる磁土も業者から購入するのでなく、収集した陶石を砕いて用意したり、現在は薪窯をセルフビルド中とのことで、自然体のストイックさにも感銘を受けています。これからもとても楽しみな作家さんです。
田中啓一のシェイプオブパターン
多角形のカップやプレート。丸く膨らんだ六角形のポット。郵便受けのような壁掛けの一輪挿し。田中啓一さんの作品は、角と線がきっちりと出た大量生産のプロダクトのようにも見えますが、板状の陶土を丹念に組み合わせて作られた「手」の仕事。プラモデルを作るようにパーツを組んで出来る造形は、ろくろの回転運動では得られない複雑で独創的な形です。
マットな金属質の釉薬は鉄製の工業製品のようですが、もちろん錆びることもなく、焼き物ならではのあたたかみも備えています。
陶土からパーツを切り出す際に用いるのは自由なアイデアで切り出した紙の型。型紙から生まれた平面のパーツが立体になる様は、洋服のパターンを想起させますが、変則的な型紙は時に予想してなかった形になることも。統制された工程のなかに潜む未知との出会いに作家自身も惹かれているように感じます。
田中啓一さんは武蔵野美術大学 工芸工業デザイン学科で陶芸を学びます。当初は別の専攻を考えていたそうですが同大の教授だったプロダクトデザイナー・小松誠氏の講義に感銘を受けその道に進みます。鋳込成型の特性を生かし紙袋のシワまでを写しとった花器(MoMA収蔵のクリンクルシリーズ)など、技法とデザインの関係を掘り下げながら、日常生活へアプローチした小松誠さんと同じく、田中さんの器もそのユーモアを使い手に委ねています。
成田周平の土器的陶器
成田周平さんが作るうつわには表面に無数の線が刻まれたものがあります。この線刻は手びねりのあと乾燥した表面の形を整える際に、ギザギザの刃物で削ったときにできたもの。装飾文様というより作業の一つとしてランダムに刻まれた線。さらに水で溶いた釉薬で磨きあげて得た鈍い光沢、そしてコロンとした愛嬌のある形。見たり触ったりしているうちに、先日終了した展示のテーマとして考古学的要素のある架空のストーリーを思いつきました。
発掘調査のため来日した考古学者ショーン・ヒタリー博士(Prof. Shaun Hitarey)は偶然立ち寄った多治見で思わぬ出会いに遭遇する。手びねりで成形された表面はよく磨き込まれていて手にすると思いのほか軽い。一見すると土器のような印象を受けるが、高い温度で硬く焼き締まっているため、現代生活の器としてまったく遜色がなく、野生味のある趣を楽しむことができる。今回一群の器のなかで、これまでにないタイプが発見される。それは見る者に「天体」を想起させる、星への祈りが形となった器だった。
レポート1
今回見つかった器のなかで一際目を引くグループが滑らかな肌を持った白色の陶器だ。調査の結果、一度焼成した後に白漆(白色顔料を混ぜた漆)を塗り低火度で焼いていることが判明した。これは陶胎漆器と呼ばれ、縄文時代にも用いられた技法である。漆を焼き付けることで表面には細かく複雑な変化が生じ、堅牢性が向上している。一刻も早い年代測定調査が待たれる。
レポート2
円筒状の胴体に頭部のようなパーツが付いたこのタイプはその形状から土偶もしくは祭器ではないかという意見も挙がったが、大きさ/色/形に個体差はあるものの、上下逆さにするといずれも器状になり自立することから、液体を飲むためのカップという説が現時点で有力だ。縄文時代中期にはブドウ果汁を発酵させた飲料(液果酒)がつくられ飲用に供されていたとも言われているが(Wikipedia調べ)、このカップも酒器として使用されていたのだろうか。
レポート3
今回の調査で特に私の心を騒がせたのが、星雲、惑星、そして宇宙に散らばる様々な天体を想起させるこの一群の器だ。小さな宇宙のようであり、地球の記憶を宿した石のようでもある。縄文時代には高度な天体観測が行われていたという説もあるが、その真偽に関わらず、この器そのものに惹かれている。そろそろ年代測定の結果が出るようだ。
レポート4
年代測定の結果、驚くべきことにこれらが制作された時期は現代の2018年ということが判明した。詳細な調査により作者は成田周平という男性で、彼は土器に魅せられつつも、日常での使いやすさを考慮した焼き締めの陶器でそのプリミティブな存在感を表現している。一つ一つ手びねりで丹精込めて作られた土器的陶器、これからも注目していきたい。
ショーン・ヒタリー(Shaun Hitarey)
と、レポートを届けてくれたショーン・ヒタリー(Shaun Hitarey)という架空の人物は、成田周平(Narita shuhey)のアナグラム。成田さんにとって初めての個展にも関わらず、このような変化球を盛り込むことを快諾していただきました。それは、テーブルウェアとして使いやすい焼き締めの陶器で、野性味溢れる土器の質感を追い求めている、強いこだわりを持ちつつもガチガチにならない、ある意味で“ポップ”な柔軟さを併せ持った、作家としてのスタンスとも通じるような気がしています。ここ一年で作る物の変化も大きい成田さん。今後どのように進化していくか楽しみな作家です。
只木芳明の木工
木工作家・只木芳明さんの個展を二年連続で行いました。独学で歩みだした木工の道は、未舗装どころか、誰も選ばないようなケモノ道。華奢でありながら実用的なフォルム、漆や柿渋によって仕上げる古色を帯びた色味、鋭い感性を武器に彫り出した作品は強烈な個性を放っています。
糸巻き、割り箸、楊枝、絵馬など、只木さんの作品には実用性に欠ける物、使い捨てられる物、その物自体の価値が曖昧な物があります。二回目の個展では、そのような物たちを「B面」として定義しました。本来の用途を備えていながら用途を超えた存在感を持つB面作品は、飄々としていてこちらを試しているようでもあります。
B面が放つ光は杯やスプーンなど実用性のある「A面」をより際立たせています。緻密に削り出された薄く艶やかなかたちは、本来の用途において抜群の使いやすさを兼ね備えています。普段作家自身はA面もB面も同じスタンスで取り組んでいますが、作品として成立するか予測がつかないB面から得たものを、カトラリーなど定番作品に還元し、両輪でぐんぐん進化しているように思えます。流行り廃りの届かない孤高の道を、優れた嗅覚と溢れる創作欲をエネルギーに駆け上がる若い作家のこれからが楽しみです。