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ブーメランを投げてでも
ずらり並んだ器の中からどうしてそれに惹かれたのか自分自身でもよく分からない。作家の名前も分からずに初めて買った陶のフリーカップ。その理由を求めて、全国のギャラリーのWEBサイトをチェックしたり、店に足を運んだり、いわゆる作家物の器を追いかけるようになった20代後半。それらは当時まだ名付けされていなかった「生活工芸」の器だった。
生活工芸とは何か。新潮社刊行の『工芸批評』『工芸青花 7号』を参照にしながらざっくりまとめると、高額で権威的な一点物である「鑑賞工芸」に対して、リーズナブルで定番商品として買い足すことができるシンプルな作家の器を「生活工芸」と呼ぶようになった。発信力のある数名の作家が自らカテゴライズした生活工芸、そのキーワードは丁寧な暮らし。2000年代に次々と創刊された暮らし系雑誌が後押しする形で、これまで男性が主体となって論じてきた鑑賞工芸とは全く別の、保守的なイメージから解放された、ナチュラルなライフスタイルに馴染むセンスの良い工芸、それが生活工芸だ。
『工芸批評』は、その生活工芸のフィールドにあえて批評を持ち込もうという試みだ。うんちくの世界からせっかく解放された工芸にどうして批評が必要なのか。それは裾野を広げたその先で繰り広げられる出来事に、飽き飽きと、そして辟易させられている人たちが少なからずいるからではないだろうか。
「あの人が雑誌で紹介したあの作家の器が欲しい!」手仕事の希少性は購買欲を刺激する。知識よりも感性が重視され、買いやすい価格帯の生活工芸は、鑑賞工芸と比べるまでもなく商品として扱いやすい。消費者の求めに応じるように、それらを取り扱う店やギャラリーは増え、その結果、新たに作家デビューする人も増えていく。
マーケットが拡がり、選択肢が増えることは喜ばしいことだけど、なぜかもやもやと不健全な空気が漂っている。なぜなら、買い手も売り手も、自分自身の「眼」を持とうとせず、付加情報ばかりに気を配っているからだ。「消費」することが目的なので、物を見ているようで見ていない。その一方で失敗したくないという心理が働き、目利きと呼ばれる他人の眼を頼る。
SNSの登場はさらに事態を加速させる。人気作家のタグが付いた、いいね待ちの投稿が世の中に溢れ、承認欲求の道具として次々と消費されている。またSNSは作家にも影響を及ぼしかねない。流行を模倣し、あえて消費されることを目指す作り手が出てくる可能性もあるだろう。クリエイティブには必然的に孤独がつきまとう。自分と対峙したその先にようやく掴むものだと思う。
生活工芸がもたらしたのは、工芸の大衆化だ。勿論そのなかには自分の眼を持った使い手も、自分の道を歩む作家もたくさんいるが、上記の推測もあながち突飛ではないと思う。だからこそ、ちゃんと物を見ようという啓蒙活動が必要であり、求められているのだと思う。物を見るときに言葉を持つということは、眼を持つことにも繋がっていく。
「ちゃんと物を見よう。」と投げかけたこの言葉は、冒頭に登場する自分自身に対してブーメランのように鋭く返ってくる。なぜそれが良いのか。どうして店で扱うのか。言語化するということは、頭の中のぼんやりとした思考を定義化し、アウトプットすることだ。感覚的に惹かれた世界を思考し、言葉で読み解いたその先に、自分の眼に辿り着く。それは「消費」以上に刺激的だ。